こんにちは。ブログ管理人のはな(@hana8787hanae)です。
このブログは、看護師さんに役立つ情報を発信したいと思ってはじめました。
ブログのテーマは『自由に、自分らしく生きる』
私は看護学専攻卒業ですが、今は週に1〜2回看護師(デイサービスのパート)と他の仕事(ベビーシッター、民泊運営など)をしています。
看護師らしからぬ働き方ですが、複数の仕事で自分のやりたいことのバランスが取れているのでとても充実した毎日です。
そんな私がなぜ複数の仕事をするようになったのか?
私の30年ちょっとの人生でいろんな転機があったので、自己紹介も兼ねてお伝えします。
学生時代(高校生まで)
鹿児島生まれ、鹿児島育ち。
2人姉妹の長女です。
A型のてんびん座で、動物占いはペガサス。
束縛されるのが嫌いで、自由にやりたいタイプです。
両親から厳しく育てられたのもあり、自分を出しきれないおとなしい学生時代を送りました。
中学校の先生からの年賀状に「もっと自分の殻をやぶりましょう」と書いてあったのが印象に残っています。
一方で、気をゆるした仲間うちのグループではリーダーシップを発揮する一面も。
中学・高校は合唱部。どちらも副部長でした。
学生時代(高校生まで)
看護師になろうと思った理由はこの2つ。
- 人と直接関わる仕事をしたかったから
- 看護師免許を持っていれば、仕事に困ることはないと思ったから
正直、1つめの「人と直接関わる仕事」って高校生の時点でそこまで多くの選択肢が見えていませんでした。
学校の先生になりたかった時期もありますが「保護者との関わりが大変そう」という理由で親に反対されました。
そこで「働き口の多そうな医療職にしよう」と思い看護学科を目指すことにしたのです。
人生1度目の転機は、高校3年生のとき。
授業態度はよく規則を着実に守るタイプだったので、通知表の評価がよく、推薦受験の校内選抜に選ばれました。
面接練習へ参加したときのこと。
そこで先生に面接の模擬質問をされたのですが…周りの同級生が自分の思いを堂々と話していたのに対し、私は何も話せませんでした。
恥ずかしいから話せなかったのではありません。
考えが、
「な・い」
のです。
学生時代に頑張った「できごと」は話せても、それで自分が「どう考えたか?」という意見が、全然ありませんでした。
自分より成績が微妙だったクラスメイトのほうが質問にスラスラ答えられているのに、私はなにも話せなかった…
自分で自分に失望しました。
こんなに「私、何もできない」「周りのクラスメイトより落ちこぼれだ」と思ったのは、このときが初めてです。
先生からは優しく「もっと自分の考えを持ったほうがいい」というようなことを言われ、その優しさに影響を受けてさらに落ち込みました。
これは、通知表の評価がよかった私の、人生初めての挫折経験です。
先生や親の言うことに従うだけでは、私らしい考えは述べられないと痛感しました。
結局、行きたかった大学は全て不合格で、看護学校へ進学。
この挫折が、のちに私の人生を変えることになります。
看護学生時代
高校時代の挫折経験を払拭することを決意して、看護学校へ。
「自分の考えを持つこと」「人前に立つこと」を経験したほうがよい思い、クラスリーダーや委員会に積極的に立候補した私。
クラス、そして学校の枠組みを超えて多くの人と接するよう努力しました。
実はこのとき、看護師になるための勉強が「すごく楽しい」とか、「看護を一生の仕事にしたい」とは思っていませんでした。
母性や小児の授業で周りの友達が「赤ちゃんって可愛いよね」「子供と遊ぶのって楽しいよね」と言っていたのをうんうんとうなづいて聞きつつも
「赤ちゃんの扱いが分からない」「子供と話すのは面倒」と思っていたタイプです。
とはいえ、高齢者と話すのは好きでした。
看護学生時代の思い出は、女だらけの寮生活、そして学校を超えて参加していたボランティア活動です。
一緒にテストや実習、国家試験を乗り越えた仲間とは未だに交流があります。
一方、忙しい看護学生の私とは異なり、高校時代の友人達は華の大学生活を送っていました。
「みんな、サークル活動を楽しみながら、大学卒という肩書きも手にするのか〜いいな〜」と思ったのを覚えています。
私は、自分の努力不足で大学へ行けなかったのを自覚していたので「私も大学へ行かないと一生後悔する!」と思い、大学編入を目指すことにしました。これが看護学校2年の冬くらい。
忙しい看護学実習をこなしながら、週末は予備校で編入試験の勉強をする日々。
普通の看護学生ならやる必要のない”英語”の試験対策がきつかったです(当時、英語は苦手科目だった)。
しかし、
コツコツ勉強した甲斐あり、受験した2つの大学はどちらも合格!
晴れて、高校生のときに目指していた大学の3年次に編入学することとなりました。
人生で1番勉強したのはこのときかもしれません。
編入試験の勉強・大学生活について、5つの記事にまとめました。
大学編入を考える看護師さんは読んでみてください(私が編入したのは10年以上前なので、状況は変わっています)。
看護学校から大学3年次編入した経験のある、はな(@hana8787hanae)です。 今はフリーランス的な働き方をしている私ですが、10数年前に看護学校から大学に編入しました。 大学、行ってよかったと思います!  […]
この成功体験が、国家試験、そして留学中の英語学習のときも私の背中を押してくれました。
同時に、看護師の国家試験にも合格。
大学時代
大学進学のおもての目的は「保健師の資格を取ること」。
しかし、看護の勉強以前に”大学生活”へ憧れていた私は「ほかの人の半分(2年間)しか大学時代はないのだから、みんなの2倍以上楽しまないとダメだ!」と強く意気込んで、毎日を大切に過ごすことに1番重点を置いていました。
大学へ入学した4月は、新1年生に混じってさまざまなサークルの見学や飲み会に行きました。
訪れたサークルの数は、なんと10こ!
総合大学だったので、一般的な運動部や文化部の他、馬術部(乗馬でゴールまでの速さを競う)、シュノーケル部(マスクをつけて海にもぐる、あれです。鹿児島のど田舎の海はきれいでした)、航空部(パラグライダー。飲み会に行っただけで空は飛んでません)、探検部(日本の秘境を回る結構ハードな部活)などの見学も行きました!
「医学部保健学科」へ編入したのに、医療とかけ離れたことばかりしつつも、文系・理系/医療・教育・科学・文学などのカテゴリーにとらわれない関わりが楽しかったです。
一時期はサークル3つアルバイト3つを掛け持ちし、超多忙な毎日を謳歌。
- サークル:献血推進ボランティア、国際交流ボランティア、中高生の性教育授業(ピアサークル)
- アルバイト:結婚式場の派遣、ツアーの添乗員、大学教授のアンケート集計
その他の私の大学生活は、こちらの記事をご覧ください。看護学校と大学の違いも、私なりの視点で語っています。
10数年前に、看護学校から国立大学3年次編入した経験のある、はな(@hana8787hanae)です。 看護学校から大学編入の4記事目は、大学編入のメリットとデメリットについてお伝えします。 これ、おそらく看[…]
今思えば、フリーランスとして他業種複業をしている原点は、この2年間の大学時代にあったのかもしれません。
医学部キャンパスとメインキャンパス、そしてバイト先を、原付バイクで毎日のように往復していました。
「はなちゃんはいろいろやるね」「知り合いが多いよね」と友達に言われていたのも今と変わりません。
海外に興味を持ち始めたのもこの頃。
ちなみに、看護の勉強はあまりしていません…ごめんなさい。
保健師実習の事前学習期間に、英検の勉強をしていたのは私です。
(当時は英語が得意ではなかったので、英検2級の一次試験は最低ラインギリギリで合格し、二次試験の面接で落ちました…TOEIC700点を超えた今なら合格する自信あります!)
保健師の資格は取得できました。
※読むのに飽きてきた方は、こちらの短縮プロフィールへ。
社会人 ICU看護師
「看護師になるなら、大きい病院で3年間は働きなさい」
大学ではさほど就職についての指導はありませんでしたが、看護学校では繰り返し「総合病院で3年説」を聞かされていました。
それを疑うことなく、九州圏内のある総合病院へ就職。
初めて地元の鹿児島から出たのはこのときです。
配属先は、希望していなかったICU。
年の近い先輩がほぼいない中、急変や緊急入院が多いICUで勤務するのは大変でした。
たった1人いた同期とは勤務がかぶることはなく、そしていざこざがあって仲が悪くなってしまい病棟内にはあまり味方がいない状況。
その同期も1年間でやめてしまったので、2年目からは孤独でした。
3年目で部署内移動があり、さらに忙しいチームへ。
この頃です。
自分がやりたいこととやっていることのギャップを感じたのは。
私は「人と話をする仕事をしたい」「話すことでその人の悩みを引き出し、解決に導けたら」という思いで看護師になりました。
しかし、ICUの患者さんは、呼吸器をつけていたり意識状態が悪かったりして、会話をできる状態ではありませんでした。
家族との面会時間も限られており、仕事中に会話する相手は同僚の看護師や医師、そのほかコメディカルなど、スタッフばかり。
「全然患者さんと話せない」
「看護師として憧れた姿になれていない」
1,2年目は忙しすぎて気づきませんでしたが、3年目になって初めて「私がやりたいことはICUでは実現できないのではないか?」と思うようになりました。
部署移動を申請しようかとも思いました。
しかし、同期から「救急病棟でフライトナースになりたいと言っていた先輩が、ケモ病棟(化学療法をする病棟)に配属になった。フライトナースの夢が遠ざかったからこの病院をやめて、他に転職したらしい」という噂を聞きました。
この話を聞いたとき「私が他の病棟に異動申請を出しても、そこに行けないかもしれない」と感じ、ゾッとしました。
さらに、私が働いていた病院はその地域では超急性期病院。
患者さんの入れ替わりが激しく、どこの病棟も毎日バタバタしていました。
「もう少しゆったりしたところのほうが自分に合っているんじゃないか」という思いが募り、病院をやめたい思いが拡大していきます。
そのほか、多くの看護師と同じような人間関係の悩みもありました。
苦手な先輩にグチグチ言われたことで、自信をなくし仕事に行く気を失ったのです。
マスクで顔を隠し、無表情で心を無にして毎日勤務していました。
本気で心療内科を受診しようか迷った過去もあります。
しかし、うつで仕事をやめた友人の「心療内科に行っても薬もらうだけだよ」の一言で受診をやめ、とりあえず自分で向き合ってみることとしました(治療法や治療についての考え方には個人差があります)。
「心療内科に必要なはずの病院代は、全て好きなことに使えばいい。趣味に没頭して心が健康になれば、病院に行く必要はないんじゃないか?」
そう考え、病院にいる日と休みの日はまるで別人のように過ごしていました。
後から振り返ると、このときの私は「新型うつ」という、若い女性に多いメンタル疾患を抱えていたのかもしれません。
※本当に精神的に大変な方は、心療内科を受診したほうがよいと思います。
休みの日は仕事のことを一切考えずに過ごしつつ、退職を決めた日までは、他人にリモコンを操作されるロボットのように仕事に行きました。
入職して4年目の3月31日。
無遅刻無欠勤で最後まで勤めあげて退職!
あれだけ辛い状況で一度も仕事を休まなかったのは、1つの自信です。
しかしながら、これ以上勤務していたら、私の糸はプツンと音を立てて切れていたでしょう。
かなりギリギリの心理状態で毎日働いていました。
ICUで働くのは辛かったけど、そこで学んだ人生観や看護師としての考え方は、最先端医療を離れた今でも私の支えとなっています。
ゲストハウスでアルバイト
看護師時代は超絶忙しく、自分を振り返る暇もありませんでした。
退職前にたまたまSNSを眺めていたある日、ゲストハウススタッフの求人を見つけました。
退職後にすることもないし、1か月くらい阿蘇の大自然でのんびりしようと働くことにしました。
これが2度目の人生の転機となるのは、あとから振り返って初めて気づくこととなります。
働き出したのは、退職直後の4月3日。冬が終わり、花々が美しく咲き始める時期です。
新学期ということで日本人のお客さんは少なかったのですが、そんな中で宿泊されるゲストさんは、今まであったことのないタイプの方ばかり。
1ヶ月で50人を超える初対面のゲストさんと会話をして考えたのは、看護師時代の自分はなんて視野が狭かったんだろうということ。
病院という社会の中で身についた私の常識は、病院だけのものにすぎませんでした。
世界には、自分の知らない生き方をしている人がたくさんいると知ったのはこのときが初めてです。
人との出会いに恵まれたゲストハウス生活でしたが、新しい自分、いや、本来の自分のよいところもいくつか発見しました。
館内の清掃、草花の手入れ、裁縫…
これがとても楽しかったんです。
病院で働いていたころは、できないことが多すぎて人間関係にも悩み、私は存在価値がないのかと思うこともありました。
しかし、このゲストハウスでのなんでもないお願いをクリアしていきながら、私は私にできることがあること、ダメな人間ではなかったことに気づいたんです。
大自然の中、小鳥のさえずりで目を覚まし、道端の花の美しさに気づき、360度に広がる空の色が刻々と変化する様子を楽しむ毎日。
ゲストハウスのスタッフやゲストさんの話を聴きながら、自分の好きなことを再発見し、大自然の恵みを120%受け続けて約1ヵ月。
4年間の心のわだかまりが、私の気づかぬまに全て浄化されていきました。
さらに、ゲストハウスで外国人スタッフやゲストさんと英語を話したいと思ったことがきっかけで、英語を勉強したいと思うようになりました。
このとき、ワーキングホリデー(以下、ワーホリ)のために1年間海外へ行くことを決めました!
派遣看護師
すぐにワーホリへ行ってもよかったのですが、1年間も日本を離れるのには勇気が必要でした。
そこで、渡航時期を9ヶ月ほど先へ設定し、それまではワーホリ資金を貯めるために3か月契約で派遣看護師の仕事をすることに。
配属先は外科病棟。
看護師5年目にして、病棟で働くのは初めての経験です。
まず、患者さんが自分で歩けること、問題なくしゃべれることに心底驚いたのを記憶しています。
新人時代をICUで過ごした私にとって、話ができる患者さんとのコミュニケーションは新鮮でとても楽しかったです。
意識清明な方の採血をするのも初めてだったので緊張しましたが…
リハビリスタッフ、薬剤師、栄養士などを巻き込みながらチームでカンファレンスをすることに、ICUとはまた違う看護師としての専門性を感じました。
「私が描いていた看護はこれだった!」と、ピンとくる感覚もありました。
さらに「派遣看護師」という立ち位置も最高でした。
委員会や看護研究、新人指導など、病棟業務以外の仕事はほぼゼロ。
残業はほとんどなく、プライベートも充実。
人間関係もよかったので、当初3ヶ月予定だった派遣の契約期間を3か月延長して合計半年働きました。
「もう少し働いてほしい」とも言われたのですが、この時の目的はワーホリ資金を貯めること。
あまり渡航時期を遅らせたくなかったのもあり、半年で切り上げました。
結局、ワーホリ渡航を決めてから約1年後、日本を飛び立ちました。
このときの私は28歳です。
海外生活(フィジー、オーストラリア、フィリピン・セブ島)
2015年9月。
鹿児島中央駅から福岡へ。
そして、福岡空港から、韓国の仁川空港、そしてフィジー留学に飛び立ちました。
母は別れ際、鹿児島中央駅の新幹線のプラットホームで泣いていました。
私も泣きそうになったけど我慢。
こちらは、最初の2年間の海外渡航歴です。
2015年9月〜2016年1月 フィジー留学
2016年1月〜5月 オーストラリアでワーホリ
<1ヶ月の一時帰国>
6月〜2017年1月 オーストラリアでワーホリ
<10日間の一時帰国>
1月〜3月 フィリピンセブ島留学(1回目)
<1ヶ月半の一時帰国>
5月〜8月 セブ島のゲストハウス滞在
今思うと、よくこんなに行動したなという感じです。
とにかく、やりたいことに貪欲に飛び回っていました。
「海外で1年間暮らせば英語はペラペラになるはず」
そう思う方もたくさんいると思います。
しかし、現実はそう甘くはありませんでした。
生活するだけでは、英語を聞いたり話したりすることに慣れます。
しかし、会話に慣れることと、思いを全て伝えられることは違います。
話せても「いつも同じ言い回ししか使っていないな」というときがくるんです。
レストランや宿泊施設、日本食レストランの基本的な接客英語はマスターしても、旅先で会った外国人と全く問題なく会話するのは困難でした。
「もっとリスニング力を高めたいし、ボキャブラリーを増やしたい」と思った私は、ワーホリ後にセブ島留学をして最後に英語を勉強することにしました。
当時は、これが最後の海外留学になるはずだった。
これが終わったら、日本に戻って看護師として働く予定だったんです。
そう、あの人に出会うまでは…
ワーホリ後、10日ほど一時帰国をしてすぐにセブ島へ飛びました。
1月だったので、夏のオーストラリア→冬の日本→常夏のセブ島と、気候の変化も著しかったです。
セブ島では、本気留学で有名なセブ島の語学学校に6週間留学しました。
留学の話は別で書くとして、ここではフリーランスを目指すきっかけになった話をしましょう。
私の人生を変えたのは、またまたゲストハウスです。
阿蘇のゲストハウスの同僚へたまたま連絡をとったところ、こんなメッセージが。
「私の知り合いがセブ島でゲストハウスを経営してる。はなさん、時間あったら会ってみたら?」
そこで、そのオーナーに連絡をして帰国前日ギリギリのタイミングで会いました。
この方も、私の人生を変えた1人です。
私はこのオーナーに会ったとき、つい本音を漏らしてしまったんですよね…
そうするとオーナーは
「そしたらフリーランスになってみたら? パソコン持ってる? 持ってないなら絶対買ったほうがいいよ。
このゲストハウスで手伝う人を募集してるんだけど、もしはなちゃんがまたセブに戻ってきてここの手伝いをしてくれるなら、フリーランスになるためのスキルを教えてあげる」
と言ってきました。
このときの私は、看護師に戻るのが先延ばしになるならなんだってやってやる! くらいの気持ちだったと思います。
その方に勧められたパソコンをすぐに買い、2回目のセブ行きとゲストハウスの手伝いをする話も決めました。
2回目のセブ渡航をして「フリーランスのノウハウを学ぶぞー!」と意気込んでいた私ですが、彼から習ったことはそんなに多くありませんでした。
- 基本的なMacbookの使い方
- 文章好きならブログをするとよい。無料版のはてなブログがおすすめ
- デザインはできたほうがいいから、フォトショップを使えるようになる(結局していません)
その時のオーナーが忙しかったのか、わざと付け放したのかは分かりません。
最初の数日で大まかなことを伝えた後は「自分でググってみたら?」というだけで、手取り足取り教えてはくれませんでした。
フリーランスとして活動するには、人から言われたことをやるのではなく、疑問を自分で調べて解決しながら進める必要があります。
彼は、自分自身の背中を見せることでそれを私に教えてくれました。
やるべきことを聞いてからは、それを自分で試しながら自分で好きな方向に進んでいったんです。
私はブログ書きが楽しかったので、セブ島の様子を毎日発信していました。
100日連続でブログ更新すると閲覧者が増え、それをきっかけとして通っていた語学学校からライターの仕事をもらいました。
ほかにもクラウドソーシングのサイトで単価の安いライターの案件からはじめ、少しずつ仕事を増やしていきました。
「パソコンを使って仕事ができる!」
現場に出ることなくお金を稼ぐ体験をしたのは、このときが初めてです。
2017年8月、約2年ぶりに住民票を日本に戻しました。
ここから私の新しい生活が始まります。
フリーランスとして働いてみたいと舵を切った私ですが、1年目はそれだけの収入では到底生活できませんでした。
そこで、看護師の派遣サイトに登録し週1くらいで仕事を始めることにしたのです。
デイサービスの入浴介助、健康診断、訪問入浴など、1日のみでできる看護師の仕事をはしごしました。
そうしながらも、クラウドソーシングでライティングの仕事を受けて収入を得る日々。
「朝はライティング、昼は看護師、夜もライティング」
なんだかいろいろやってるなと思いながらも、今考えるとこれは序の口です。
生活拠点は、知り合いが多く、地元に新幹線で1時間ちょっとで帰省できる「福岡」にしました。
福岡に来て1ヶ月くらいしたころ、セブで出会った友人から「語学学校でライターの仕事をするインターンを募集している。はなちゃん来ない?」と誘いを受けました。
断る理由もないので「行くね!」と割と即答!笑
行くと決めた2ヶ月後のチケットを取って3回目のセブ島へ。
3回目のセブ島滞在は、それまでとは別の語学学校で英語の授業を受けながらライターの仕事をしました。
英語学習とライターを両立するのはとても苦労します。
英語力を本気で伸ばしたい方は、日本語のライティングを頑張らないことをおすすめします(理由については、別で記事を書きたいと思います)。
余談ですが、このときに旦那と出会いました。
セブ島滞在後、2018年春、福岡での生活を再開。
フリーランスとしての仕事を続けるかたわら、派遣で看護師バイトをしていました。
この頃していたフリーランスの仕事はこちら。
- 語学学校のライター
- 医療系転職サイトのライター
- セブ島ツアー会社のツアーオペレーター
ツアーオペレーターの会社は、セブのゲストハウスのオーナーとその友人が2人で起業。
最初はお客さんが少なかったものの、マーケティングに詳しい友人が頑張った甲斐あり1年目から大盛況!
夏休みは毎日問い合わせに追われて忙しいでしたが、その分給料も上がってありがたいと思いながら働いていました。
派遣看護師もしながらフリーランスとしてパソコンに向かう日々。
頻繁にカフェに行くお金もなかったので、毎日家でパソコンを叩いていました。
今となっては、よく家で仕事できたと思います。
パソコンを使うリモートワークも、楽しいんです。
画面の向こうにお客さんや同僚は確実に存在していて、少しオフラインになっただけで返信に困る数のメッセージが届いていました。
でも、
やっぱり何かが足りないんです。
パソコンの先にいるお客さんでなく、今、自分の目の前にいる人にアプローチしたい。
派遣看護師としていくつかの職場で働きましたが、派遣だと断片的な関わりしかできないのが悩みでした。
1日だけでも利用者さんとの関係を築けないわけではありません。
しかし「昨日と比べて〜だね」「家族背景は〜だから」「体の状態は〜だから」と時間を追っての関わりや1人ひとりの個別性に沿ったアプローチをしたかった私は、派遣の仕事ではやりたいことを実現できませんでした。
「週1〜2回くらい定期で働かせてもらえる事業所があれば1番いいな」と思っていたとき、
かなりタイミングよく知り合いが看護師の求人を紹介してくれました。
それが今の職場、デイサービスです。勤務してちょうど1年になります。
- 週1〜2回のデイサービスの看護師
- 観光関係のフリーランスの仕事
- ベビーシッター
これが今の私の仕事です。
一見なんの繋がりもないように見えますが「人と話をする仕事をしたい」という高校生のときの思いに沿った仕事をしています。
複数の仕事をするメリットは、1つひとつの仕事を本気でやりつつも、全てがよい気分転換になること。
看護師の仕事で悩んだときは人と距離を置くリモートワークをし、パソコンで仕事をして疲れたときは子供に癒される。
そんな贅沢な働き方をしながら生活しています。
看護師免許も使っています。
海外から日本に帰るときは「看護師に戻りたくない」と言っていましたが、結局私にとって看護師としてのポジションは必要でした。
本物の潜在看護師にはなれなかったのです。
そんな、看護師らしさのない私は、これからもこのスタンスで働いていくつもりです。
このブログでは、紆余曲折した看護師としての人生、医療職視点以外の考え方などを発信していきます。
こんなに看護師らしいことをしていないので看護師を名乗ってよいのかは少し戸惑いますが、仕事は私を形作る1つの形であって、それだけに染まる必要はないのかなとも思います。
私の思いに共感してくださる方はぜひフォローをお願いします。
長いプロフィールを読んでいただき、本当にありがとうございました^^